應聲教院(おうしょうきょういん)は静岡県菊川市にある浄土宗の寺院。永代供養、水子供養、墓地分譲、各種法要を行っております。
子授け、縁結び・夫婦円満、厄除け。應聲教院山門は、国指定重要文化財となっています。

寺院について

お知らせ

由緒
応声教院本堂
應聲教院本堂

遠州桜ヶ池奥ノ院 皇円阿闍梨菩提所 遠江十二支霊場 水子地蔵菩提所
当山は、今より1,100余年前の斉衡2年(855)、比叡山の法主慈覚大師が、文徳天皇(55代)の勅願所(ちょくがんじょ)として創建された寺で天台宗天岳院と称しました。
その後、嘉応元年(1169)比叡山の皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)が、弥勒菩薩の出世を待って、その教えを受けようとして、桜ヶ池に蛇身となり入定されました。その皇円阿闍梨上人が当院を宿とされた宿縁の寺であります。
後、承安5年皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)の弟子、法然上人が浄土宗を開宗され、恩師皇円の徳を慕い、親しく桜ヶ池を訪れた帰り途、当院に立ち寄られ、数々の宝物を残されました。
また、当山裏山にて七日七夜の念佛を唱え、師皇円の冥福を祈られ、東海念佛初開道場を開かれました。この遺構は山頭に法然塚として今も残されております。
当山御本尊、歯吹阿弥陀如来(はふきあみだにょらい)はこの時に安置された稀有の御本尊で、霊験極めて顕著であります。
これより当山は、天台宗を浄土宗に、天岳院を應聲教院と改名され、名僧感西上人を開山として現在まで浄土宗の教えを伝えております。
皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)菩提所、桜ヶ池奥之院、十二支辰巳霊場、水子供養の寺として、遠くは親鸞上人、熊ヶ谷蓮生坊(れいじょうほう)の来山をはじめとして、全国の名士、善男善女の参詣は四季を問わず信仰の霊地として、また心身の平安を求める慰安の場として訪れ、今日まで永い伝統を伝える東海の名刹であります。

皇円阿闍梨こうえんあじゃりと法然さま~應聲教院の由来~

国宝の應聲教院山門
応声教院山門
国定重文奥ノ院山門徳川二代将軍秀忠公寄進
日光東照宮建立の甲良豊後守棟梁作

應聲教院の山門は、石段を上がった入口にそびえ立つ朱塗りの門です。間口7.80m、奥行3.63m、切妻造、本瓦葺八脚門は、昭和29年9月17日に国の重要文化財に指定された建物です。寺院の八脚門は側面を2間とするのが通例ですが、この山門は側面を1間としています。太い角柱上に冠木を渡し、軒の出を腕木で支えるなど、実に剛壮雄大で優美さがあり、全体の構造形式は城門に近いという特徴のある門です。この山門は寛永3年(1628)2代将軍・徳川秀忠が亡くなった母の供養にするため静岡市の名刹「宝台院」に築造された大門でした。大正4年(1915)に應聲教院がゆずり受け、大正7年(1918)この應聲教院に移築されました。安土桃山時代のやさしい上品な味わいがあり、東海第一の山門と呼ばれています。

梵鐘ぼんしょうのいわれ
梵鐘
日本に只一つ純金銀が鋳込まれている銘梵鐘と鐘楼堂

銘梵鐘と鐘楼堂
当山には、その昔、什宝(じゅうほう)の鐘と禁酒の鐘(旧菊川町、相沢作次郎氏一寄進)の二基の梵鐘(ぼんしょう)がありましたが、昭和17年(1952)大東亜戦争のため供出して終わりました。以来復元の機を得ずいましたが、当山第54世祥誉察音(しょうよさつおん)住職が、梵鐘復元を一大願望として日夜精進(しょうじん)努力いたし、図らずも法縁あって、皇円阿闍梨上人(こうえんあじゃりしょうにん)の大徳と察音住職の熱意を汲みとられ、岐阜市後藤喜久、咲子夫妻により一寄進下され、昭和41年阿闍梨大龍の両眼には寄進者咲子夫人の純金の指輪が、爪と牙には純銀が鋳込まれています。
富山県高岡市老子次右ヱ門氏の手により鋳造(ちゅうぞう)され、青銅雲龍縁起純金銀象眼の鐘と名付けられました。

梵鐘

梵鐘

阿闍梨大龍の両眼には純金の指輪、爪と牙には純銀が鋳込まれている

奇しくも、鋳込の前は当山54世察音住職正念往生され上人の遺髪が鋳込(いこ)められた宿縁(しゅくえん)の梵鐘です。
その後、55世説音住職が先代の志を相伝し、鐘楼堂建立の大願を発起、檀信徒の浄財を以って昭和45年(1970)春彼岸、大願成就浜松市鴨江西岡建築宮大工西岡奇一棟梁により総欅造り四方ころびの見事な鐘楼堂(しょうろうどう)が完成いたしました。

お堂の天井には、滋賀県浅井郡の堤幽泉画伯の筆により、桜ヶ池の霊水を以て純金泥・極彩色(ごくさいしき)にて、皇円阿闍梨大龍の現身の御姿を揮豪(きごう)奉納されました。
梵鐘 高さ:2m(6尺) 外径:1m10(3尺3寸) 厚さ:0.10m(3寸) 重さ:1トン半(400貫)

交通安全、厄難消除、世界平和の響きこそ、「正覚大音、響流十万」
迷の夢を覚さんと御恩御恩と鐘が鳴る
~当山54世故察音辞世~

さざれ石